LOGIN言い終えてから、目を逸らす。
景都はすぐに意味を決めなかった。「用事がなくても、会っていいと思う」「それ、先に言ってよ」「今、分かった」 店を出る時、私は旧仕様だけをバッグへ戻した。新しい方は景都へ渡す。「返すの、急がなくていいから」 景都は一度こちらを見て、試作品をコートの内側へしまった。 景都は、三ミリを本気で譲らなかった。 翌週、社内のユーザーテストへ協力を頼むと、新仕様の評価シートで操作性だけが低かった。コメント欄には、癖のない文字でこう書かれている。『引き手が細く、片手で拾いにくい。冬季や手袋使用時の再評価が必要』 名前を見なくても分かった。 昼休みに電話をかける。「厳しすぎない? 見た目は新しい方がいいって言ったでしょう」『見た目の欄は高く付けた。操作性は使いにくかったから低い』「総合的に考えてよ」『項目を分けたのは水城さんの会社だろ』 正しい。正しいから腹が立つ。「このままだと歩きにくい?」「いや。外れない速さにすればいい」「じゃあ、それで」 景都は前を向いたままだった。駅が近づくほど、歩く速度だけが徐々に落ちる。私の指も、景都の小指も冷たい。夫婦だった頃なら、こんな触れ方はしなかった。手をつなぐか、腕を組むか。もっと先まで知っているのに、今は小指一本だけが近い。景都の手が動くたび、握られるのか、離されるのか分からなくて、そのたびに指先へ力が入った。 今は一本だけで、何と呼べばいいか分からない。駅前の段差で、私の指が一度外れかける。景都は握らず、小指だけを僅かに曲げた。引き止めるには弱く、離れるには足りる動きだった。私は自分から掛け直す。駅の入口で人が増え、景都が一度こちらを見る。私は離さなかった。彼も何も聞かず、私の小指が外れない速度まで歩幅を合わせた。 小指一本なら、嫌になればすぐ外せる。それがよかった。信号を渡る間、私は何度も指の角度を変えた。景都は合わせるだけで、握ってこなかった。 改札の直前で、私から離した。景都の手は追わず、そのままコートのポケットへ入る。さっきまで小指だけ近かったことを、誰にも見られていないのに隠すようだった。ポケットへ入らなかった私の手だけが、行き場をなくして揺れた。 翌日の夕方、景都から電話が来た。私は台所で米を研いでいた。水を替えるたび、昨日引っかけた小指が目に入る。『昨日のことなんだけど』「手を繋いだってほどじゃないからね。そこ、変に確認しないでよ」 先に言うと、電話の向こうが黙った。「……何、その間」『まだ何も言ってない。ただ、昨日のことをどう受け取ればいいか聞きたかった』「だから、受け取らなくていいの。昨日は昨日で、それだけ」 二度目の水を捨てる。白く濁った水が、指の間から流れた。『でも、小指がかかったまま歩いたことまで、なかったことにはできないだろ』「なかったことにしろとは言ってない。分類しないでって言ってるの」 鍋の湯気が電話を持つ頬へ当たり、私は顔を横へ向けた。『昨日は、離さない方がよかったのか』「あなたは離したかった?
景都は自動販売機の前で足を止めず、また横へ並んだ。「喉、渇いてたんじゃないの?」「電車に乗ってからでいい。ここで止まると、また人に挟まれる」 水より、今の歩幅を選んだように見えた。確かめず、前を向く。改札の手前で、互いの路線が分かれる。景都が傘を鞄へしまうため立ち止まり、そこで初めて腕が離れた。濡れた袖に空調の風が当たる。「袖、冷たくなってないか」「少し。でも、上着を貸すほどじゃないからね」 景都は自分の上着を脱がなかった。私も借りたいとは言わない。 景都は路線案内を見上げた。「電車、あと四分」「見たんだ」 濡れた傘の留め具を指で直しながら、彼は言った。「今は見ていいだろ」「別に、止めてないけど」 いつものやり取りへ戻ると、肩の力が抜けた。それぞれの改札へ向かう。振り返る理由がなく、私は交通系カードをかざした。反対側の列へ入る景都の姿が、柱の向こうへ消える。ホームへ下りると、雨で濡れた人の匂いがした。向かいの線路から冷たい風が上がってくる。袖はまだ湿っている。さっきまで隣にあった腕のぬくもりが消え、そこから冷えていった。 電車へ乗り、空いた端の席へ座る。ハンカチでコートの水分を押さえると、景都に触れていた側だけ皺がついていた。トーク画面を開いても、新しいメッセージはない。さっきまで隣にいたのだから、送る用事もなかった。『さっき、遠回りしてくれてありがとう』と打ちかける。腕が触れていた時間まで礼に含めるようで、結局すべて消した。窓へ映る自分の腕は、もう誰にも触れていなかった。 次に会った夜、雨は降っていなかった。駅前の店で夕食を済ませ、改札まで歩く。道は乾いているのに、景都は前回より少し近くを歩いている。肩が触れない幅は、きちんと残していた。会計は私が自分の分を払い、景都も何も言わなかった。店を出たあと、彼は最短の大通りではなく、街路樹のある道を選ぶ。遠回りだと指摘しようとしてやめた。私も駅へ急いでいなかった。「映画、また行く?」「今度は俺が選んでいいか」 景都は、もう候補を決めている顔だった。「レビュー見ないなら」「上映時間は見る」「
景都は駅までの距離を言いかけた顔をしたが、黙った。柄を握る指へ雨の冷たさが移ってくる。景都の手はすぐ横にあったが、持ち方を直そうとはしない。風で傘が傾いた時だけ、骨の端を下から支え、私の手には触れず戻した。雨脚が強まり、傘の縁から水が続けて落ちる。私の左袖にも、景都の右袖にも濃い点が増えた。きれいに半分ではない。彼の方がまだ多く濡れている。それでも、傘はさっきより二人の真ん中に寄っていた。 駅の屋根が見えてくる。着けば離れられると分かっているのに、急いで雨を抜けたいとは思わなかった。信号が点滅し、景都が歩幅を速める。私も合わせた。肩は触れたまま、青が消える前に渡り切った。屋根の下へ着く直前、庇から大きな雫が落ちてきた。景都が傘をこちらへ寄せ、私の肩が彼の胸元に触れる。ポケットから出た景都の手が私の腰の手前で止まり、代わりに傘の骨を支えた。夫婦だった頃なら、転ばせないために腰を抱く程度、互いに意識もしなかった。すぐ元の位置へ戻ったのに、さっきより近く感じた。「今のは仕方ないから」「何も言ってないよ」 屋根の下で傘を閉じると、二人の間に一人分の空気が戻った。濡れた傘をまとめる景都の指から水が落ち、私の靴先へ一滴跳ねる。「ごめん」「それくらい平気」。触れていた肩の方は、平気かどうか聞かれなかった。そのまま聞かれないことに、ほっとした。 傘を閉じても、さっきまで景都の声があった場所だけ、まだ近かった。 駅の軒下へ入り、傘を閉じた。景都が端から水滴を払っている間に、改札へ向かう人の波が横を抜ける。映画の終了時刻と重なったのか、構内は普段より混んでいた。「鞄、前に抱えた方がいい。後ろから押されてる」 景都が人の流れを見ながら言う。「今やろうとしてた。言われると、できてなかったみたいになるんだけど」 私はバッグを抱え直し、彼の横へ並んだ。狭い通路で肩を避けるたび、景都の腕へぶつかる。濡れた袖同士が触れ、離れ、また触れた。人混みのせいにできる距離だった。前を歩く人の傘が、私のバッグへ当たりそうになる。景都が外側へ移り、自分の鞄で受けた。守られたと腹を立てるほどのことではない。礼を言うほどでもなく、私はバッグを胸の前へ持ち直した。 景都は先へ出よ
景都が次の土曜を空けられるか尋ねた。午後なら、と答え、今度は店を彼に任せることにする。「予約していいか?」「一軒だけなら。私に条件を聞かずに選んじゃってよ」 景都はすでに店を検索しかけていた指を止めた。「外したら?」「文句は言うよ」「理不尽だな」 私はスマートフォンを伏せた。「デートだから」 景都も笑った。 スマートフォンの天気予報では、土曜の午後に雨の印がついている。景都は画面を見て、傘の話をしかけたが、何も言わず閉じた。「じゃあ次、土曜」「ああ」 次に会う理由は、もう事故でも過去の確認でもない。「そっち、かなり濡れてる」 景都は自分の右肩を見た。コートの色が、そこだけ一段濃い。「駅に着くまで五分だ。これくらいなら乾く」「乾くかどうかじゃなくて、私の方へ寄せすぎなんだって」 傘は二人で入るには少し小さい。けれど、私の頭上へ寄せすぎなければ、どちらか一人だけが濡れることもなかった。景都の手から柄を取り、中央へ押し戻す。「真ん中に入って」「君の左が出る」 景都は傘の縁と私の袖を見比べた。「右へ寄るから」「歩きにくい」「だったら、あなたも寄って」 私が半歩近づくと、肩が触れた。道の向こうにコンビニがあり、入口の傘立てに透明な傘が並んでいた。景都の視線が値札へ向く。「買わないでね」「まだ何も言ってないよ」 視線だけが、コンビニの傘立てに残っている。「二本にしようと思ったでしょ」「この傘だと両方濡れる」「駅まで五分だから、このままでいい」 景都はコンビニの明かりを通り過ぎた。二本あれば歩きやすい。それでも私は、今すぐ離れるための五百円を払いたくなかった。薄いコート越しなのに、肩から腕の輪郭を身体が先に思い出す。夫婦だった頃は、同じ傘へ入れば景都が外側を歩いた。もっと近い距離も、その先も知っている。それなのに今は、コート越しに肩が触れるだけで落ち着かなかった。どこまで近づいていいのか、私にも分からない。
「それは、デートの続き?」「店に着いてから決めよう」 今度は、決めないことを私の方が楽しんでいた。 夕飯は、駅前の小さな中華店にした。予約はしていない。私が店を見つけ、景都が入口の空席表示だけを確かめた。 餃子が届くまで、話題は評価会の続きだった。私は屋外条件の追加試験をすると伝えたが、全社導入を最初から外すのは厳しすぎると反論した。景都は、事故が一件でも起きれば導入企業が責任を負う、と譲らない。「続きは明日メールでいい。せっかく会ったのに、仕事の話だけで帰りたくない」 景都の箸が止まった。「そのために呼ばれたと思ってた」「半分はね。もう半分は、デートの続きにしたかった」 会議で何十人を相手にしても迷わない人が、餃子一つを前に言葉を失う。「これ、デートでいいのか?」「今さら私に聞く?」 景都は一拍置いた。「夫婦の時は、ただ帰ってただけだろ」「そういうこと。今日は帰るついでじゃないから」 景都は水を一口飲み、座り直した。「じゃあ、デートだな」「急に切り替えられる?」「……やってみる」 真面目な顔に、笑ってしまった。 麻婆豆腐は予想より辛く、私は一口目で水へ手を伸ばした。景都は平気な顔をしている。辛いものが得意なのかと聞くと、結婚していた頃からだという。 私が辛い店を選ばなかったから、言う必要がなかったらしい。 生姜焼きやクリームパンだけではない。今の好みどころか、結婚中の好みさえ、互いに知らないものが残っている。「復縁するかどうかばっかり考えるの、ちょっと疲れた」 景都はすぐに答えず、辛くないらしい麻婆豆腐を一口食べた。「今の景都、知らないこと多いし」「昔の俺もだろ」「それも」「景都が知ってるの、塩パンとブラックコーヒーくらいでしょう」 景都は、桃のゼリー、文房具屋、魚へ大根おろしを全部のせることまで挙げた。海外の仕事へ行きたいかもしれないことも。「……覚えすぎ。ち
会議室の中央には、改良したポーチの試作品が並んでいる。引き手の裏へ薄い布を重ね、見た目の軽さを残したまま、手袋でも指が掛かるようにした。 景都は私の正面ではなく、導入企業側の席に座っていた。名札には『深見景都 代表取締役』とだけあり、私たちの私的な関係を示すものは何もない。「水城さん、説明をお願いします」 進行役に促され、仕様変更、ユーザーテスト、耐久試験の結果を順に説明する。 匿名端末で最終評価が入力される。私の案には賛成票が多かったが、赤い反対票も二つ付いた。 コメント欄の一つを見た瞬間、誰が書いたか分かった。『操作性は改善。ただし耐久試験が内勤用途へ偏っている。全社員配布ではなく、利用環境別の導入判断が必要』 進行役が補足を求めると、景都は試作品を片手で開いた。「見た目と操作性は前回より良くなっています。内勤中心の部署なら賛成です。ただ、屋外作業を含む全社導入には、試験条件が足りません」「対象部署を限定すれば、賛成票へ変わりますか」 私が聞く。「変えます。全社員配布のままなら反対です」 仕事として正しい。だから腹が立つ。 会議が終わると、同僚の灯がサンプル箱を閉じながら私を見る。 同僚が、深見さんに怒るのかと小声で聞いた。追加試験は必要だから怒らない、と答える。 彼女は私の手元を見た。「箱の角、つぶれてます」 最初からだと返したが、さっきまでは平らだったらしい。私は潰れた角から指を離した。 私は返事をせず、景都へメッセージを送った。『反対票を入れた人、夕飯に付き合って』 すぐに既読がつく。『反対理由なら資料にまとめて送る』『夕飯で聞く』 少し間があり、了承の返事が届いた。 エレベーターで二人きりになると、景都は仕事用の表情を少しだけ解いた。「本気で腹を立ててるのか?」「少し。正しい反対だったから、余計に」 会議室の机には、採決を終えた資料がまだ開かれていた。仕事の数字は変わらないのに、向かいにいる景都だけが、仕事の顔から私生活へ戻りかけていた。







